こんにちは。こんばんは。おはようございます。
とあるブロガーこと7327Mです。
知識は、準備しておくもの。
知識は、大体の人にとっては、習得の難しいものである。
知識の習得には複数の方法がある。
一つは、情動的な衝撃を伴う習得。つまり、ある言葉やあるシーンを見て心が強く揺さぶられた際に一瞬で覚えることが出来る。
自分の場合は、漫画での記憶が分かりやすいかな。ワンピースのエネルの、「我は神なり」という発言。“神である”という意味と“雷”(ゴロゴロの実の能力者)という意味がかかっていると自分で気づいた瞬間に、ぱっと覚えることが出来た。あとは、小学校の理科の実験でやった、イライラ棒。くねくね曲がったアルミ線の周りを、輪っかで当たらないように潜り抜けていく、あれ。何か知らんけど、別に覚えてなくても良いけど、なんかホンマにイライラしたのを、気持ちと、そして情景とともに非常に鮮明に覚えている。あと読者様にも当てはまるかもしれないと思うのは、音楽の歌詞かな。リズムよく、そして特に韻を踏んでいた李逆説的な表現をしている歌詞は一瞬で覚えられる。SUPER BEAVERの「らしさ」って曲。の歌詞。「個性を出さなきゃいけない そういう流行りの無個性で」という歌詞。なんかとても記憶に残ってる。すごい。(aho)一瞬で覚えた歌詞。
んで。
もう一つの知識習得の方法は、繰り返しによる習得。
有名な、忘却曲線というやつ。人は、習ったことの約半分を、その次の火には忘れてしまっている。そして一週間たった暁には、ほとんどを忘れてしまっている。やから、一週間以内のスパンでの定期的な復習・振り返り・応用の機会が必須である。
んまぁ個人的には、こんな一週間以内とかいうくそ真面目ちゃんにはならなくてもいいやろうと思ってはいるのだが、それにもましてやはり、「同じことを複数回学習する」という行為の意味は非常に大きいと考える。私自身は教育系の学部に所属しており、教育に関する授業を受けており、教育というか子どもが好きな学友に囲まれて毎日を過ごしているのだが。考え方や思考の癖が、非常に“教育学部っぽく”なっていると感じる。同じようなことを、色んな授業で、色んな観点から、本当に多様に教わる。その過程で、自分の思考の癖すら、少しづつゆがめられ、変化してきている。これはひとえに、“繰り返し”による一種の洗脳のようなものだ。しかしそれほどに、“繰り返し”の効果は大きい。自分自身が思っているよりも。
さて。
そんな“知識”を獲得するモチベーションはどのように維持していったらいいのか。
“情動的な衝撃を伴う習得”は、強力ではある。がしかしながら、そのような体験はそうめったに起こるものではない。
こと、勉強なんぞにおいてはもっと少ない。芸術性のかけらもメッセージ性のかけらもない文字列・作業であるからゆえ。“チャンドラグプタ二世“と“vise versa”くらいであろう。一発で覚えられるのは。これらは文字列としてあまりにも芸術性が高い。
”繰り返しによる習得”は現在最も一般的に用いられている方法である。がしかし、”情動的な衝撃を伴う習得”とは真逆で、数はこなすことは可能であるが、何しろ時間がかかる。その道程が苦痛であり、私含む一般人(知能の度合いという意味合いにおいて)にとって、ほとんどの勉強は最終的には繰り返しても繰り返しても習得のできないものである。それほどまでに難しい。
本当に”繰り返しによる習得”を目指すのなら、一種の仙人的生活が必要であろう。毎日のルーティーンがほとんど決まっていて、人間関係の煩わしさや睡眠を阻害するような負担が一切かからない、理想的な環境。これがあれば、繰り返しによる習得は余裕で現実可能となる。ただ現実問題を考えると、そこまでの理想の生活は難しく、浪人で本当に勉強に打ち込む人だけしか体験できないのではないかと思っている。
そこで提案したいのが、”知識は、準備しておくもの”という考え方。
形式美を重視して先ほどの”○○の習得”という例に習うなら、”目的を定めた、道具としての習得”とでもいえばいいだろうか。
何かしらの会話や対話を想定・想像したうえで、そこで必要となるであろう周辺知識を学んでおくこと。相手とのスムーズな、かつ楽しい時間を共有しておくために、「いや、わからんわ・・・」が無くなるように、予め準備しておくこと。
こう考えたら、知識の習得という面倒なプロセスも多少は気が楽になるのではなかろうか。
自分のため、でももちろん良い。授業を全部理解して積み残しの内容にしたいから。そんな素晴らしい理由も大歓迎である。
あるいは、相手のため。一緒に自分と時間を過ごしてくれる友人のため。そこでどんな会話をするのか、別にあらかじめ定めろってわけでもないが、大体同じような話ばっかりするだろう。アニメの話とか、Vtuberの話とか、ドラマ、アイドル、コスメ、将来の話。
中には自分がそこまで得意でない分野ももちろんあると思う。
そういった話題に関して、いかに準備しておくことが出来るか。
人のためを思って費やした時間は、われわれの想像以上に貴重なものである。と同時に、自分にとっても重要な意味をもっている。「相手のことを考えてる俺かっけぇ・・・」状態である。意外と記憶に残る。
そんな瞬間に、例えば前回の授業の内容をいつでも話せるようにしておこうとか、あの英単語や漢字を、それにまつわるトリビアも含めて何かしら楽しく話題を提供出来たらどうだろうとか。
それを自分で調べる時間にこそ、”主体的”であり”自分で考える”ことが出来ているのではないだろうか。教育の本質が現れているのではないか。
それらの内容を、ただ調べて納得するだけではなく、実際に相手と共有して、色んな相手にあれやこれやと話して、そうするうちに自分で内面化して、自由自在に引き出したりすることが出来たのだとしたら、それはもう自分の本質を形作る基盤にすらなっているのではないだろうか。
少なくとも私には、ただ勉強する、というよりもむしろ、相手とその知識やトリビアを共有して、一緒にその知を楽しむ、という方法があっているのではないかと思った。
相手と楽しい時間を過ごしたいしね。
てなわけで”知識は、準備するもの”という考察に行きついた昼下がり。そろそろ風当たりがきつくなってきそうだ。
もう11月にもなった。こんなことを20の若造が感じてはいけないのかもしれないが、月日が経つのがとても速く感じる。今年の1月のことも鮮明に思い出されるというのに。
いつも読んでくださりありがとうございます
星やコメントなど本当に励みになります!!
書きたいこと書くだけですが!!忖度はしませんが!!
また投稿していこうと思うので、気楽に、気長に、ゆるやかに、応援の程よろしくお願いいたします☆
何か気分的に編集とか無しでただただつらつら3000文字。
読みにくうてしゃーないんやろうと思いながら・・・
読んでくだされば幸いだと・・・思ってしまう自分がいる。
7327M