体重:54.7kg (+0.2kg)
マジ何のために体重測ってブログに記録しているんだろうか??
いや、意味はある。あったはず。
「筋トレするから、体重増えるよ!!私の身長での平均体重:65kgに近づくからね!見ててね!!みんな!!」
そんな動機から始まり、今ではもはや習慣となっている体重計測だけど。
余りにも変化が無さ過ぎて記録する意味ないね。笑笑
筋トレは頑張っているんだけどね。半年くらい、54kgから全く抜け出していない笑笑
まァ、気楽にやって行きますよこれからも。
こんにちは、こんばんは、おはようございます✨(´ー`)
”そすう”でございます!(´・ω・)
夏目漱石「こころ」を読みました。
あと、今日、ディズニーの「ノートルダムの鐘」を見ました。
夏目漱石「こころ」
先生とKの物語。何やかんやあって色々”死”が絡みつく物語。
読むのに胆力がいる。のと、自分が古典文学にそもそも慣れていない。そのせいで、読むのに1か月以上かかった。大変大変。
ほんでまた読み返す必要性に迫られている。
なぜそのような必然性に迫られているのかと言うと、これは決して、「先生とKの物語」ではないはずだからだ。いや、ないからである。そう断定しておこう。
教科書とかさ、問題とかさ、試験とかさ、あとは国語の先生のオリジナル教材とか??
そういう部分で使われる素材ってのは、大体が先生とKの部分なのではないだろうか。
先生と私に関する記述は、あんまり見てこなかったような気がする。周りの友人に説明するときとかもさ、「湘南で先生を見かける物語」というのではなくって、「先生とKの物語」と言って初めて「あぁ~あれね」って通じる。そのくらいに、「先生とKの物語」という認識は広く通用してしまっている。
でも、実際に本を読んでみてわかったこと。それは、「こころ」という作品が、「私」という一人称における語りで進んでいくこと。正確には、「私」の手記という形で物語が進んでいくこと。そして、肝心の「先生とKの物語」はと言うと、これはネタバレではないから言うけど、「下」として、第三章という扱いで初めて出てくるということ。
上 先生と私
中 両親と私
下 先生と遺書
この本には、第三十六版においては300ページほどあり、その中で「上 先生と私」が100ページほど、「中 両親と私」が50ページほど、最後に「下 先生と遺書」が150ページにわたって書かれている。
そしてその中でも、「下 先生と遺書」に関しては、構成としては語りの中の語り、手紙の中の手紙とでも言おうか。先生からもらった手紙を、私が、一字一句そのまんま引用している形になっている。ただ手紙の内容が引用されているだけで、それ以外の私のコメント成り私の状況なりは、少なくとも「下」の中では一切説明してくれない。物語全体を時系列でみると、「下」での先生の過去が一番最初に来て、次に「上」で先生と私の出会い、最後に「中」で私の両親のことが描かれているのだが。「中」の最後の最後において、私は先生から件の手紙を預かり、その内容は「中」よりもあとで、つまり「下」のなかで、読者同様、「私」も知ることになる。
では、「こころ」は「先生とKの物語」なのだろうか??
いや、決してそんなことはあるまい!!これは、「私」の物語である。
焦点を最終的に当てるべきは、その先生の手紙や先生との出会いを通じて、手記を書いている「私」が「今」何をどう感じているかということになるのではないだろうか。その答えは、少なくとも先生の手紙の引用に完ぺきに終始している「下 先生と遺書」にはない。研究されるべきは、「上」や「下」の部分になるのではないだろうか??
そう思って「上」の書き出しを少し書いてみると、以下のような文章から始まっている。
私(わたくし)はその人を常に先生と呼んでいた。だからここでもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。これは世間を憚(はば)かる遠慮というよりも、その方が私にとって自然だからである。私はその人の記憶を呼び起こすごとに、すぐ「先生」と云いたくなる。筆を執っても心持は同じ事である。よそよそしい頭文字などはとても使う気にならない。
やっぱり、こういう部分には、手記を書いている立場としての「私」の「今」の状況が少しだけ、見えてくる。「上 先生と私」のほとんどは回想の場面であったとしても、それを回想として描く以上、「今」の「私」の考えなり状況なりが多少読み取れるのではないかと思う。
ただしこれは、あくまで自分の想像に過ぎない!!
故に、、、そう、1か月以上かけて読み切ったこの「こころ」という本であるが、またもう一度、読み直さねばならない。。。くふっっっ。悲しいような、楽しいような。笑笑
ディズニー「ノートルダムの鐘」
中性パリが舞台。赤ん坊の時に拾われて以来、城(?)の外には一切出ることを禁じられながら、ノートルダムの鐘を鳴らすことを日課としている「怪物」カジモド。そんなカジモドが、城下で行われるお祭りに忍び込んだことをきっかけにエスメラルダという美しい女性と出会い。。。
あとは、見てください。(暴論)
長くなっちゃったので箇条書きで書きますね。
・心/マスク/石の壁の”中と外”がテーマなのかなと感じた。
心の中にも、自分にしか見せない”中”の部分と、他人に見せる”外”の部分がある。それがまた色々異なっていたり、変化したり、自覚したり。
マスクってのは、帽子であったり、キャップであったり、あるいはそのまんま顔を隠すマスクであったり。とにかく、「隠す」ことの出来る道具。それの中と外では、つまりそれを被っている時と被っていない時では、物語上における”善”と”悪”が明確に分けて描かれていた。
「石の壁」ってのは、映画の中での表現ね。要するにノートルダムのでっかい建物のこと。この中では、神様の力が働く協会ゆえに、いくら支配者や国と言えど、支配することやしいたげるといったことは一切起きてはならない「聖域」として強く描かれている。でも外に出れば、悪政が行われている。
そういう、”中”と”外”での強い設定が共通して見られた。
・悪役として描かれるフロローが良いキャラ
多くは言わん。ネタバレになるので。
でも、悪役でありながら、自分の善性や感情と結構真摯に向き合っているようで、でもそれでも自分の悪性や神への敬意、あるいは正義というものにも心を取られてしまっている。そういう部分での人間臭さが良かった。処罰されるべき人。。。なのだろうか??
・宗教色が強かった
「ノートルダムは聖域だから、国も介入できない!ここでは皆が自由だ!!!」のような文言が繰り返されていた。率直な感想を悪い言い方で言うとすれば、「世界に通用するディズニー様様が、そんな宗教や聖域みたいなことを堂々と言っていいのか??と思った。決して、宗教を批判している訳では無く。それをディズニーが企業として全世界に公式に発信するものとして取り扱うのは、なかなか勇気がいることだと思うんよね。
私個人としてはどうも思わないから賞味良いんだけど。そういう意味で話題になったりとかしなかったのかな??
平和のあるべき姿ではあるけどね。しかも最終的には、信心の特にないキャラが中心となってThe・エンドだから、やっぱり関係のないことかもしれないな。
ただまァそういう宗教汚職という意味で、異色ではあるのかなと思った。
以上!!長!!!
寝ます!!!
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また更新します。ほなまた!!
( ノ ゚ー゚)ノ
「寝る前1時間はPCを見ない」を全く実践できないそすう