必要な情報、必要でない情報

今日のテレビ番組で、ほぼ完全自給自足の自然暮らしを行っている家族について、密着取材みたいなのが放送されていました。

動物を飼い、鶏を飼い、木を伐り、畑で育て、小麦粉も炭酸水も全部自分たちで作る家族。

 

 

それを報道するテレビ。「これって、あれなんじゃないん??」「はぁぁぁ~~~そんなん出来るん知らんかった~~~」と言う家族。

 

 

 

 

 

 

 

 

いやいや、その知識、どこでどう必要だ??

どこでどう、自分の人生の役に立つ??

どこでどのように、本質的な生き方に通づるものがある??

 

 

 

 

 

 

 

 

 

こんにちは、こんばんは、おはようございます👨‍👧‍👧

 

”そすう”でございます🍚

 

 

 

 

 

 

 

 

テレビにラジオ、新聞に本、そして何より、スマートフォン

現代には、情報を得ることのできる媒体がそこかしこに存在している。有名な言説でいえば、「現代人が一日に触れる情報量は、江戸時代の一年分、平安時代の一生分」とも言われるほど。

自分の調べたいことから、自分が興味なくても、なんとなく惰性で流れてくる情報も含めて、その量はもう膨大も膨大なものである。

 

知識が増えていくにつれ、むしろ一日に入ってくる情報量は増えてくる。様々なものの見方を獲得するからね。同じ現象でも、科学的な観点、物理的な観点、そして経済的、生物学的、さらには宗教的な観点。あらゆる見方を獲得してしまえば、あらゆる情報が、一つの現象に付随して流れ込んでしまう。さながら、グーグルレンズを通した商品情報のように。

 

しかし、そういった情報は、果たして本当に必要なもののなのだろうか??

自分の人生において、どのような機能を持っているのだろうか??

 

そのような観点から情報を取捨選択することは、なおさら重要なことであるように思われる。

 

 

 

 

 

例えば冒頭で話したような、むっちゃ自然派の家族の一日にせまった番組。

 

ここで出てくる様々なトリビアや情報は、本当に必要だろうか??

いや、必要であるかどうかでいうと、ちょっとずる過ぎるな。そりゃ必要ないものが多いだろう。ではもう一つ質問。その情報は、自分で得たものか??自分が、自分の意志で、獲得を望んだものであるか??その知識・情報の獲得の果てに、どのような自分の姿を想像するか??

 

 

 

 

 

 

このブログのタイトルである「無駄の美学」とは、「人生、効率的・合理的なことばかりではなく。無駄なことの中にこそ、本質が隠れていたり、人生の役に立つ鍵・ヒントが隠されている」という信条に即したものである。

 

その理論でいうと、必ずしも、「自分には必要ないから」「その情報を獲得したとて、何も成長は望めないから」という結果的な”無駄”は排除するべきではないのかもしれない。無駄なものの中にこそ、本質があるから。

 

ただ、現代においては、無駄すらも、溢れすぎている。ちょっとした無駄を楽しむ、とかそういう次元ではなく、自分の人生や、日々の選択すべてが無駄に帰してはいないか??本質的なものを、見つけようとする努力すら惜しんではいないか??

 

 

 

 

 

 

 

 

家族に言いたい。特に、兄に言いたい。

 

君は、何のために生きている??何のために、知識を吸収する??何のために、情報を得る??

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

兄は院進するのが確定したそうだが、果たして、どうだか・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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自分への戒めとして。

夏休みも残り2週。

 

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( ノ ゚ー゚)ノ

 

 

 

 

 

忘れっぽく、かつ物を失くしやすく、「スマホ脳」を3冊買っているそすう