暇な時間があると、ついスマホ・・・ではなく、思索にふけってしまいます。自分の人生どうなるのかな~とか、人間関係どうかな~とか、あの友達とのかかわり方はどうしたらいいのかな~とか。
とっても、意味のない時間だと思います。考えたところで、行動しない限り何か変わるものではないし。その時間を音楽とか何か情報収取とか、あるいは課題の時間にあてられたらどれだけ時間が作れるのかとも思います。
無駄なんです。
だから好きなんです。
だからブログの名前が、「無駄の美学」なのです。
自己陶酔
こんにちは、こんばんは、おはようございます( ˘•ω•˘ )
”そすう”でございます('_')
色々な人と話して思うこと。
それは、私のコミュニケーションに対する姿勢が、非常に持って「他人軸」であるということ。
「他人中心」「相手次第」というべきだろうか。
つまり、自分がその相手と仲良くなりたい/関わりたくないにかかわらず、相手が自分とどう関わりたいか、相手が自分のことをどう思っているのか、相手がどんなテンションで話しかけてくれるのかに合わせて、自分の話し方やテンションを変えてしまう、ということである。
私に対してとてもよくしてくれる友人がいる。その友人は、自分をご飯に誘ってくれる。用もないのに連絡をしてきてくれる。「最近よく遊ぶのは、そすう位やな~」って、偶に嘘で、偶にほんとで言ってくれる。基本的には何の内容もない馬鹿話ばっかりで、一生会話の止まない友人である。
また別の友人は、それほど頻繁に誘ってくるわけではない。しかし、黙っていてもスッと隣に来てくれるし、喋り方も、ずいぶん落ち着いてるようでいて、時折「そんな自分のことを気に入ってくれたんや」と驚かされるほど、嬉しい言葉を投げかけてくれる。
前者の友人に対しては、こちらもハイテンションで対応する、ハイスピードな喋りと、間の無いボケで馬鹿笑いする。アホな男子大学生やと思ってくれれば大丈夫です。
後者の友人に対しては、こちらもゆっくりと対応する。多くのボケは挟まない。でも、自分なんやかんや横にいたいと思うし、実際いてみたりする。
そんな風に、相手によって、話す態度を非常に大きく変えてしまう。
みんなそうやろ!とも思うけど、人並み以上に、「自分がこうしたい」という意思がないために、完全に他人任せになってしまう。相手があんまり話したくなさそうやったら、こちらも話さない。相手が喋りたそうやったら、話す。そこに自分の「喋りたい」「喋りたくない」は一切介在しない。
ただし、家族に対しては少し違う。
家族に対しては、家族がどのような感情であっても、どのような状況であっても、自分中心で考えてしまう。自己中になるわけではないが、基本的にどんな状況であろうが歌を歌って、断続的に突っ込みづらいボケを挟み、無視され、しかし粘り強くボケ続け、いつかデカい笑いを取る。家族一人一人が、歌をうるさいと思っていることも、ボケをうっとうしいと思っていることも、お構いなしに、自分のやりたいようにやっている。
友人の場合とは逆で、相手がどう思っていようがお構いなく、自分のやりたいことを、自分で勝手にやっている。「歌いたい」「ボケたい」「今は自分がしゃべりたい」をそのまんまに表現する。
家族自身が、もう「そういう人」として確実に認識してくれているからであろうか。
良きか悪きか。
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「他人軸」「他人中心」「相手次第」
なんかぴったりの言葉ないかなぁ
また更新します。ほなまた!!
( ノ ゚ー゚)ノ
周りの人の喋り方を研究してみると意外と面白いということに気が付いたそすう