用法や意図を分類・区分することはそこまで大事なのか??

こんにちは、こんばんは、おはようございます☉

 

”そすう”でございます🌤

 

 

 

 

 

 

 

 

 

世の中には、様々な区別・分類が存在している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

英語でいうところの、”制限用法”と”非制限用法”

 

そして、”同格のthat”と、”関係代名詞のthat”、そして”接続詞のthat”

 

学校教育でいうところの、”総合的な学習(探求)の時間”と、”特別活動”

 

 

 

 

 

 

 

 

これらはいずれも、分類上では明確に異なるものとされており、名前の雰囲気とかは似てはいながらも、単元レベル、あるいは概念レベルで違う、というように教えられる。

 

 

 

 

 

 

 

しかし、その区別は本当に必要なのか??

 

 

とそすうは思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

例えば制限用法と非制限用法は、強調の度合いが違い、システムから異なるものとされている。

 

制限用法:I have two sons who entered the Prime University.

     「私には、素数大学に入学した二人の息子がいる」

 

非制限用法:I have two sons, who entered the Prime University.

      「私には息子が二人いて、彼らは素数大学に入学した」

 

制限用法の場合は、”素数大学に入学した”息子が二人いるだけで、他の息子や娘もいる可能性がある。

非制限用法の場合は、”息子が二人いる”という話が来ているので、少なくとも三人目の息子がいる可能性はない。

 

このような点で、これら二つは全く異なっているものだ。混同しないように気を付けよう。

 

 

 

私の持っていた参考書にはこのような説明がなされていた。

 

 

 

 

がしかし、これを厳密に理解して区別することにどれ程の価値があるというのだろう。

ニュアンスに違いが感じられるか感じられないか、それを知識をもって感じ取れることは非常に価値があると思うが、、、

じゃぁ実際、その区別が役に立つことはあるのだろうか。いや、ない(反語)。

 

正直、受験英語の文章の範疇において、制限用法でなければならない文、非制限用法でなければならない文というものは出会ったことがない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

もっとひどいのが、thatの区別

 

同格のthat:I heard the news that he had broken up with his wife.

     「私は、彼が妻と破局したという知らせを聞いた」

関係代名詞のthat:I knew the news that he told me.

        「私は、彼が話してくれたニュースを知っていた」

接続詞のthat:I heard that he had broken up with his wife.

       「私は、彼が妻と破局したと耳にした」

 

同格のthatは直前に”抽象的な名詞”が来て、そのあとは”完全文”になる

関係代名詞は、直前に"名詞”が来て、そのあとは”不完全文”になる

接続詞は、直前に"動詞や形容詞”が来て、そのあとは”完全文”になる

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ふぁ??!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

💭thatだけで何種類もあって、その直前には動詞とか名詞とか形容詞とかの区別があって、そのあとは完全文か非完全文が来て・・・

ってそもそも完全文ってなんや??!!

 

 

 

 

 

 

ぜったいこうなる。

 

 

 

そんな堅苦しい難しいこと言わずにさ。

 

thatのポイントは、「説明してくれる」ということ。

 

I heard the newsときたら、どんなニュースなのか?ってのを、説明してくれる

I know the newsときたら、やっぱり、どんなニュースなのかを説明してくれる

I heard ときたら、何を聞いたのか?を説明してくれる

 

たったそれだけの事なんです

 

 

 

 

たったそれだけの事なのに、わざわざ難しい言葉や専門用語を使って解説してしまう

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

”総合的な学習(’探求)の時間”と、”特別活動”に関しても、同じ。

どうやら”意図や目的は全く異なっている”らしいんです。どうやら。教授によると。

 

ただ、私たちが小学校時代を思い返して、”総合の時間”とか”特別活動の時間”を振り返ってみても(算数、国語みたいな一時限の科目として、”総合””特活”は、科目として成立していて、これ読んでいる読者様全員がその授業を受けているはずです!)何をしたのかはいまいち覚えていないし、その区別なんかましてや出来るわけもない。

 

子どもたちには、その区別やら分類やらは一切伝わってないし、仮に伝わったとして、その目的(大概は抽象的で横断的なもの)が成し遂げられるわけでもないし、そもそもの話、その目的やら意図やらは教師側が勝手に設定したもので、正解なんかあるわけない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ってことを考えると、

 

そういった区分や分類って、いわば研究者たち・大人たちのためにあるのであって、きれいに整理整頓して管理するために存在しているのであって、

 

しかしそれは決して、子どもや学習者といった、「受ける側」「与えられる側」のためになるとは限らない。

 

そんな風に思う。考える。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

立場が変われば見方が変わるのは至極当然の事。

今自分がやっていることが本当に相手のためになるのか。

相手の事を考えた時に、自分の考える側とは意味合いが異なっていないか。

 

そんなことにも通じるのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

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そすう