[写真ログ]公園に行ってきて、いろいろ考えた。

アメリカに来てから2週間。。。が過ぎ、もう3週目の半分に突入してしまった。そんな中、初めてトライしてみた、近所の散策。目的地は、近くにある公園。散歩にはもってこいの最高の日差しの中、いつもとは違う足取りで歩く私。

 

 

 

公園にたどり着くまで、徒歩12分。日本だったら8分くらいで歩ききってしまうほどのせっかち速足人間。しかし今日は、アメリカである。体に染み渡らせるように、じっくりと歩みを進める。グーグルマップを見れば、「フラット川」との表示。川じゃねぇじゃん・・・と思ったのもつかの間。細々ながら、川は、水は、確かに続いていた。途切れているかのように見えたんだ。でも、続いていた。

 

 

 

手元には、スマホ。日本と変わらない、スマホ。しかしスマホの表示する画面は、私が歩くたびに、ふとした気づきを得るたびに、少しづつ変わっていく。進んでいるのか、ただ冗長に無駄な人生を歩んでいるのか、別の道を行ってみた方がいいのか、少しづつでも褒めてあげるのか。どれも正解ではないし、どれも間違いではないのだろう。ただそこに、歩みが記録されるのみ。ただそこに、自分の人生を記録するのみ。

 

 

 

 

しかしまぁ、小さいことを無視してしまえば、、、、
これは、留学/研修している身として思ってはいけないことなのかもしれないけど、、、
大方としては、日本と特段変わらないな、という印象を受ける。
違いを見つけるのは、簡単。でもその違いってのは、事実以外の何物でもなくて。
事実の裏にある、もっと深いところ。カッコよく、あるいはくそウザくいってしまえば、人間であるとはどういうことか、という問いに対しては、日本であろうがアメリカであろうが大差がないように感じられるのだ。
アメリカは全然違う国だよ」
アメリカはこんだけすごいけど、あおれはさすがにダメだから、こうした方がいいよ」
間違ってはいないが、どれも表面的な違いに過ぎないと感じた。本質的には。。。結局のところ人間である。

 

 

 

ただの雑草ですらも、アメリカだから、撮ってしまった。
植物は好きだ。それぞれに発見者がいて、それぞれに名前がついている。こんな雑草だって、だれかが見つけて、名前を付けて、どんな味なのか、どんな香りがするのか、どういう性質で、どんな成長を遂げるのかについて、誰かが記録している。そんな営みを結集させた、「知」というものが好きだ。しかもその「知」は、概念的なものではなく、日常のそこかしこにひっそりと隠れている。彼らは、「知だよ~~~見てよ~~~」って言ってるのだ。けれど、こっちが聞く耳を持たないと、その「知」には一生たどり着けない。それって、とってももったいないことであるし、何より日常が味気ないものになってしまう。いや、そんなことにすら気付くには至らないのだろう。

日常は、グレイだ。しかも濃淡がある。薄い部分、濃い部分、滑らかにグラデーションが見られる部分、ビビッと急に色の変わる部分。でも、薄かろうが、真っ白ではない。濃かろうが、真っ黒ではない。みんなそれぞれ生きているのだ。みんなそれぞれ、ひとつの形を持った「知」なのだ。折角のグレイも、自分のフィルターを通してしまうといとも簡単に真っ白に見えてしまう。どうだろうな。それもそれで幸せだし、全部の色を認識できるなんて不可能だし。そうなったらそうなったで無残な人生だけれど。だけれど、私はそれでも、グレイを見たい。出来る限り、色を見つけたい。些細な日常に。ほんの少しの振る舞いに。ちょっとした感情の揺れ動きに。そんなものに、気付ける/気付こうと努力できる人間でありたい。

 

 

 

 

 

 

 

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最後は、大空の写真で心地よく締めましょう。

 

 

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( ノ ゚ー゚)ノ

 

 

 

 

文章を書く難しさを痛感するそすう