少し抽象的なお話・・・???
こんにちは、こんばんは、おはようございます!!
とあるブロガーこと7327Mです!
今日の大学の授業中に考えたこと。
アメリカ文学の歴史について講義を受けまして。
今日は特に”アメリカの詩”についてお勉強しました。歴史的な流れでいうところの、”モダニズム”。これは、20世紀前半(1909~1939)にかけて形成された詩、あるいは小説、それらを包括する”文学”における手法のことでありまして。一つの特徴的な括りになっているとのこと。
私が気になったのは、その”モダニズム”とやらではなくて、その期間。
”モダニズム”が始まり、そして次の大きな括りへとつながっていったその期間。
配られたプリントの中には、1909~1939って書かれてありました。
やけに具体的やな。
この時期に何が起こったのか。
何かしら重大な、大きな事件や発見があったんやろな。
少し調べました。
あ、何か疑問に思ったときは、複数のソースで調べて、そのいずれの記事にも共通していることを”重要な情報”として抜き取って覚えておくといいです。共通しているってことはそれだけ大事ってことですから。
したらどうやら、複数のきっかけが考えられるようで。
1.急速な社会化による個人の孤立(例:メールやLINEの発達による、家にいながらの外との接点)
2.科学技術の進歩
3.第一次世界大戦の影響(社会不安や団結意識など)
4.精神分析学による無意識の領域の発見
といったことが原因として考えられるよう。
私が着目したのは、
4.精神分析学による無意識の領域の発見
という部分。
いわゆる無意識の発見ってやつです。
フロイトとユング、と言ったら、読者様もなんとなー--く記憶がよみがえってくるのでは??
んまぁ別に蘇らなくても良いんですけど。
とにかく、フロイトさんとユングさんって言う人が、人間の”無意識”という領域、”無意識”という考え方・概念を発見したんだよーーーと。
これが、アメリカ文学界における大きな転換点となったよーーーと。
これ、すごくないですか??
私はこれを凄く凄いと感じる。(語彙力)
何かって、
第一次世界大戦みたいな大きな転換点となるようなレベルの事を、発見したんですよ。
人が。一人で。初めはフロイトさん一人で。
これって、すごくないですか??(二度目)
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それまで考えられてもいなかった全く新しい理論を、自分で見つけ出すこと。
これほど知的好奇心がそそられる瞬間はありません。
ゼロの発見、も似たようなものかな。
”有る”ものを記述するために発明された文字や記号を用いて、”無い”ことを表すことのできる概念。
だれがどうやったらこんなもの発見できるんか。
いや、発見されたんですけど、私たちにもすんなり理解できる初歩的な内容なんですけれども。
最初ってのが凄い。
自分で見つけられることが凄い。考え出せることがすごい。
文字通り”ゼロから”1を生み出すようなものです。
”最初”ってのはいつだってなんだって貴重で特別なものだ。
読者様の皆さん、
過去の歴史を紐解く、って言ったら・・・どうしますか??
多分大体の人が、図書館で調べる、とか、政府の記録を調べる、とかになると思います。
てか実際昔はそうでした。かつては。正式なもの、ちゃんとしたところから情報を引き出してました。
でもそこで柳田國男は言いました。
「いや、普通の人々の暮らしが一番大事やろ。地域の人に話を聞いて、伝統的な歌とか昔話とか聞いてみてもええんちゃうん??」
だれがこんなこと思いつけるねん。
何で思いつけるねん。
例えばあなたが、”生徒の前で国語の授業をやれ”と言われたとします。
読者様なら、どうしますか??
多分十中八九ほとんど必ず遠からず、教科書とプリントとノートを準備して、黒板を使って授業をするでしょう。
何故かって、自分がそう習ったから。そういうもんやと思ってるから。その方法しか知らないから。
んでも例えばそこで、自作のテキストを使ってみたり。読む方ではなくて自分で作文する方の授業をやってみたり。
そんな小さいことから”新しい”とか”斬新な”とかいう形容詞のつく物事が生まれてくる。
それをもっともー--と、もっともー--っっとタケモット!”新しい”にしたのが、フロイトであったり柳田國男であったりする。
あいつらえぐい。やばい。
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そんな姿に憧れる自分はというと。
自分自身は凡人だとはわかっていながらも、やはり、憧れる。そうなりたいと思っている。
だからいっつも、エセ”新しい理論提唱”をやってみている。
んまぁそんな難しいことではなく。
あんなことをしたらどうか、こんなことをしたらどうか。
それをある意味実験してみる。
世間一般的にそれがどのように思われているのかをいったん無視して、実験してみる。
”空なんて飛べない”という言葉を無視したライト兄弟のように。”人間には意識が最重要で意識がすべてだ!”という言説を何だかんだ覆して見せたフロイトのように。
自分が提唱したい、”全く新しい理論”を記しておこう。
科学的なデータではなく、それと同じかそれ以上に、複雑な諸要素を含む”感情”の重要性。
これを、私は提唱したい。
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今の時代は、”科学的なデータ”が少々重視されすぎていると感じる。
何を書くにしても、"エビデンス”
何を語るにしても”根拠”
何を話すにしても”理由は??”
いやいやいやいや。
そんなものでは表すことのできない領域ってもんもあるでしょうが!!
何でもかんでも言語化できるほど頭良くないし、何なら言語化する必要も気力もなくなる時ってあるでしょうが!!
例えば、私が参加した意識高い系のイベント。
高校生に対して、将来のプランを一緒に考える、みたいなイベントに、高校生と話をする側として参加したことあるんですけど、そこで印象的だったことがあって。
私:「好きなことは??」
高校生:「ゲームが好き」
私:「何故??」
高:「・・・好きだから」
私:「・・・何故??」
高:「・・・」
私:「・・・」
みたいな会話。笑笑
この世の地獄ですよもう。笑笑
流石にここまでひどくはなかったですが、んまぁ似たようなもんです。
イベントに参加するときの注意事項として、「とにかく深堀り!感情を引き出す!」みたいなレクチャーがあったのでそれをめっちゃ意識したんです。めっちゃ意識して感情を引きずり出せるように「何故」戦法を使ったんです。
そしたら地獄でした。笑笑
いや、「何故」と問いかけること自体は全然変じゃぁ無いと思う。
この前ここのブログでレビュー書いた本にも、"Why so??"が大事って書かれてあったし。
ただ、そうじゃぁない場面もあるやろう??
理由なんかいらずに好き!嫌い!なんか無理!ってこともあるやろう??
何かしら恋愛に関してマイノリティの方たちにとっての”好き”であったり。
うつ病の方にとっての”動けない”であったり。
私たちにとってのブログを書く意味であったり。
研究対象としてそれらを見る場合はまぁ百歩譲って科学的な観点で見るのは良いとして。
当の本人たちからしたら”ただただ””なんとなく”とかっていう言葉が一番似合ってるんじゃないの??
理由も必要ないほどにしんなり受け入れられている状態の方が自然なんじゃないの??
状態とか原因を考えることは重要だけれども、そんなこと言ってられない状況とか気分ってものは存在するんじゃないの??
科学的・一般的な規範よりも、個人の率直で直感的な感情の方が大事じゃねぇの。
自分は、そう思う。
勝手に家庭環境と結び付けるな。たまたまや。
勝手に過去のトラウマとこじつけるな。これは第二の、別種のトラウマや。
勝手に”社会全体の風潮”を原因とすな。こじつけや。これは自分の勝手な個人の問題や!!
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前もブログに書いただろうか。
私には夢がある。
「(倫理の)教科書に載る」という阿保みたいな夢だ。
凡人だからかなう確率はゼロに等しいんだろうってことは分かっておる。ただ、”全く新し理論”を提唱することが出来れば、もしかしたら死後有名になるパターンかもしれないけど、何かしら痕跡は残せるんじゃないかな。
いつも読んでくださりありがとうございます
どんどん文章が長くなっている気がします。
こんなことしている場合ではないのだけれど。
課題とバイトで睡眠時間ヤバいはずなんだけど。
星やコメントなど本当に励みになります!!
書きたいこと書くだけですが!!忖度はしませんが!!
また投稿していこうと思うので、気楽に、気長に、ゆるやかに、応援の程よろしくお願いいたします☆
7327M