結局のところ。

結局のところ、

自分がどんな人生を歩もうが、誰もなんも気にしないよな。

落ちぶれる以外なら、何かしら自分なりに動いている限りは、なんか言われるとしてもどうでもいいことだよな。

 

 

 

人は結局、自分で動いて、周囲の人とかかわって、周囲の人のやり方をパクって、それを自分用に消化して自分のものにして成長していく。

うーーーーん、”人は”っていうと、大げさだな、自分は、って話。

少なくとも自分は、自分の経験したことのないことに関しては全くあずかり知らないし、知っているふりをしていることしか出来ない。でもその知っているふりって、永くは続かないし、そして何より、中身が伴わないから、周囲の人からしても、「あっ、こいつあんま知らねぇな」ってバレてまう。

 

だからどうしたらいいのかって、

正直に生きるってのはもちろんそうなんだけど、

自分でやってみるしかないんよね。

自分で動いてみて、自分の経験をただひたすらに貯めていくこと。それしか方法はない。最初のほうは、「やっているよ」って言っても実力は伴わない。だから、「やっぱ中身ねぇやん」って思われるかもしれない。

でも次第にさ、「あれ、なんかホンマに上手になってね??」って思われて、自分の中でも少しづつわかることが増えてきて、そっからなんだよね。自分の思い描いていた景色は。少しだけでも「出来る」から、少しだけ、自信がついてくる。

 

最初っからうまくいくなんて、考えてちゃだめだな。

 

今までの自分を思い返してみよう。自分が、どのようにしてバイトで成長したのか。人間関係を築くのがどのように上手くなっていったのか。その時々で考えていることはどのようなことか。

思いっきり客観視、思いっきりメタ認知。自分がどんな風に考えているのか、を考えてみる。

 

 

 

スペックの高い低いは、なんも練習していない初期状態で、どれだけ要領よく仕事をこなせるか、ってだけに過ぎない。そっからの成長速度の速い遅いもあるよ、確かに。たださ、どれだけ最初はどんくさいにしろ、成長速度が遅いにしろ、弱火でじっくり温めたらいつかは必ず沸騰するじゃん??緩やかだろうが時間かかろうが、最終的に同じ土俵に立つことは出来るやん??

その間が辛いんじゃ、とか、そうだとしても胸を張っていられるものの数=熟達したものの数は少ないじゃん、ってのがあるんだけど。

それはさ、最初に言ったことよ。つまり、「どんな人生歩もうが、前に進んでいる限り、前に進もうとしている限り、誰もなんも気にしない」って寸法よ。

 

居や正確に言うと、あなたの人生を何かと気にする人は、あなたの周りに居ると思うのだけど(いなかったらごめん。私がそばにいますよ。)、それってのは、決して反対している人じゃない。心配なんだよ。そして、その心配は、過保護にならない限りは、自分以外の心配でしかないんだよ。二人称の心配でしかないんだよ。自分の行動にとやかく口を出されることじゃない。自分の行動が直接的に何か変わるわけではない。

おまけに、そういう人って、暫くしたら大抵、助けてくれる人に変わるよ。だって、わざわざ心配してくれて、しかもそれでも止めない自分に対して、やっぱりしつこく心配してくれるってことは、もう信頼しているのと同義じゃん。好きなのと同義じゃん。嫌いな人、どうでもいい人に対してそこまで深く長く関わろうとするか??自分ならしないね。どうでもいいから。ゆるくだろうが、関わってくれるってだけで、それはその人の愛情とか信頼とか、「そうは言うてもこいつは良いやつやからな。成功してほしい」の裏返しやん。

 

めっちゃ思った。

 

 

 

 

 

何でこんなことを思ったのだろう。

自分のバイトでの成長を振り返って。人間関係での成長とか変遷を振り返って。

 

あぁ、あと、NHKの”72hours”を見たのもデカいな。

一一般人の、本当に多様な、小さな、しょうもない、時折破天荒で、しかしそのすべてがなぜだか美談に見える番組を見たからだな。

好きなんだよな。

結局どんな人生も、美談にすることができる。結局長く生きた人生ってのは、長いってだけで、第三者目線で傍観するに値する。

 

なら自分は自分の人生を、どのようにデザインすることができるか??

 

 

 

 

 

 

 

とりあえず、お金と時間だな。

何より大切。